砂漠の中のねこ

息継ぎがしたい

楽しかった話

 

眠れない。ここ最近は比較的眠れてたのに。

だけど今夜眠れない理由には、心当たりがあるっちゃある。

 

今日、大好きな後輩と会って、最近思っていることを話しまくった。

Twitterに疲れたこと。

出どころのよくわからない金で生きている人のハイクオリティぶった恋愛観や人生観

バズ狙いの(でも全く中身のない、場合によっちゃ日本語的にも成立していない)ツイートしかしない人の痛々しさ

真理をついたようで当たり前のことしか言っていないバズツイートのリツイート(謎のルールによる宣伝付き)

ほんとか嘘かわからない豆知識

過剰に煽るおすすめコスメや美容How to

本当にその人のものかわからないイヌやネコの動画

など、全部が嫌になった。気持ち悪い。虚構すぎて無理。

 

実態のあるものとしか関わりたくない。

実態のある人にしか心を割きたくない。

上のようなツイートたちに何かしら思考を持っていかれる自分の性格上、今のタイムラインがあまりにもノイジーすぎる。

昔のTwitterは(という言い方は古参厨ぽくて嫌だけど)もっとどうでもいいことを呟けたのに。もっとどうでもいい、人間の生活の一部、って感じの世界だったのに。

 

そういう人間ぽさを求めて、ずっと前にGRAVITYをダウンロードしていたから、久しぶりにそっちを見てみようと思った。そしたら驚くべきことにTwitterと同じ状況だった。

ローンチされたばかりの頃は、もっと心の闇とかドロドロしたもの呟けたじゃん!

優しい世界だったんじゃないの?

個人が繋がるプラットフォームは、承認欲求たちにまみれていく運命なのだろうか。

 

そんなことを話していたら後輩に「Filmarksも今そんな感じですよ」と言われてぎょっとした。私は超最低限の人しかフォローしていなかったし他ユーザーと交流もしないので気がつかなかった。でも「なるほど、だから花束みたいな恋をした、の評価があんなに高かったんだね」と納得した。

 

 

 

あと、最近毎晩20〜30分ずつ映画を観ているから、その話もした。本当はいっきに観たいけど、まとまった時間を取れないのと、毎日少しでも自分の世界に入れる時間を取りたくて、2〜3日に1本観終わるペースで観ている。

映画を観る視点って、自分自身のそのときのコンディションでかなり感想が変わるなー、というのが最近思ったこと。

ストーリーや登場人物にめちゃくちゃ共感するときもあれば、そういったものには全く心動かされないけど映像の撮り方やばっすごっ、てなるときもある。

 

そして思うのは、自分の語彙力の無さ。

作品をみているときはいろんなことを思ったのに、文章に起こした瞬間、違う温度感になってしまう。そうだけど、そうじゃないんだよな、という感じ。あらゆる形容詞で表現してみるけど、文末が「良かった」「美しかった」「共感した」などに落ちついた途端に、その文章全体が陳腐なものに成り下がってしまう。この感覚を後輩と共感し合えたのがすごく嬉しかった。

私的には、後輩の文章における表現力は素晴らしいと思っていつも見ているのだけど。

 

直近で観た作品が画家の話だったこともあって、絵画を見るときの感覚についても話した。

絵を描く人が「この瞬間を描きたい!」と思うのと、私がカメラで「この瞬間を撮りたい!」と思うのは、同じような感覚なんだなという発見を、映画を通してしたのだけど、私は昔から絵の良さはわからない。なんかこの絵好きだな、という感想は抱くことはあるけど、なぜ好きなのか、とか聞かれても説明できないし、世間で評価されているような絵も、賞賛される理由がわからない。

 

けど後輩と話していて、まず好きな理由は特になくて良いんだということがわかった。そして、文献を読んで時代背景などもろもろを知っていくと、自分がなぜ惹かれるのか少しずつ見えてくるということもわかった。

次は後輩と美術展へ行きたい。

 

 

 

 

 

こんな風に疲れてしまったのは、今のような、あまり出歩かず、人とも会わない状況が続いたからこそなのかもしれない、と思ったのが今日の結論。

人とリアルで会話をすることのハードルが上がった分、誰と会うか(誰のために時間や労力をつかうか)、誰から何の情報をもらうか、がめちゃくちゃ重要になってしまった。そうなってくると、虚構が発信する虚構について思考することに、一体なんの意味があるのだろう。

私は毎日飽きずに一緒に居られる夫と、こんな状況下でも定期的に連絡を取り合う数少ない友人や後輩がいるだけで、充分なんだよな。

 

楽しかった1日の余韻。