砂漠の中のねこ

息継ぎがしたい

私が死のうと思ったのは。

 


小学生の頃からずっと死にたいと思っていたが、その気持ちがピークに達して実行したのは、24歳のときだった。

 


理由のひとつは、生活がうまくいっていなかったこと。

まだ24歳なのに、私は永遠にこの暗い生活をし続けなくてはいけないのかと思うと、まるで鳥籠の中の鳥になったような気分だったし、自分の存在価値を見出せなかった。

 


もうひとつは、重箱の隅を突くような世の中の風潮を前に、この先まともに生きていける気がしなかったからだ。

当時はほぼ専業主婦で人間関係も限られていたので、自分がそういった攻撃や揚げ足取りの対象になることはなかったけれど、最も身近な人間が、自分よりひとまわり以上歳の離れた人間が、そういう社会の波に飲まれ倒れていく姿を見て、「この人が無理なら、きっと私はこの世界では生きられない」と思ってしまったのである。

 

 

子供の頃に死にたいと思っていた理由は、先に書いたものとはもちろん違う。

でも少なくとも、私の中には幼い頃から「生きる」以外の選択肢が確かに存在していて、おそらく自分はいつか、その選択をする日が来るんだろうとなんとなく思っていた。

そういうベースがあって、少し大人になって垣間見えた世の中の様子に足がすくみ、生活にも希望が持てなくなったことが引き金となって、もう私は生きられない、という気持ちになったのだ。

 


激務による過労ではないし、話を聞いてくれる友人もたしかにいた。心療内科の先生もかなり良心的な方で、本当に丁寧に私と向き合ってくださった。

だけど誰にどんなに寄り添ってもらっても、どんなに自分を認めてくれる人がいても、世の中の風潮や生活が変わるわけではないし、そこで私が生きていかなくてはならないという事実もまた、変わらない。そのことに、とにかく絶望してしまった。みんななぜ、こんな自分勝手な人間ばかりが溢れた世の中で、なんだかんだ言いながらも生きていけているのだろう。何も感じないのだろうか?窮屈に思わないのだろうか?私には無理だ。考えただけでもこの世界を生きることのハードルが高すぎるし、こんな世界で生き続けるなんてあまりにも苦しい。私にはできない。

 


誰かに自分を否定されたわけでも、攻撃されたわけでもなかったし、何かに気付いてもらいたいわけでもなかった。でも私はダメだった。

そして助かってしまったときも、心の底から絶望した。

 

 

 

その後、環境を大きく変え視座も少し変わったので、あの頃ほど堕ちることはなくなったけど、それでもこの世を生き苦しく感じることは、正直なところあまり変わっていない。

本当は現在の環境も、私の性質のことを思うとベストではないのかもしれない。と、たまに思う。そしてあのニュースを見て、今また思うのである。