砂漠の中のねこ

息継ぎがしたい

生きるとは。

先日、友達の子供が産まれた。とてもめでたい。長らく付き合いのある友人が母になるなんて、なんだか信じられないし、自分に置き換えたときに非現実的すぎて、決断した友人を心底尊敬する。

 

子供の名前はまだ決まっていないと言っていた。報告をくれた日から時間が経っているので、おそらく今は決まっていると思うが、そのときはまだ悩んでいると言っていた。

 

これまであまり考えたことがなかったけど、そのときふと、「人間は、名前がない時期があるのか」と思った。私も産まれてから数日は、命の鼓動はあれど名前のないただの生き物だった時期があるのだ。この世に生を受けていながら、"何者でもない"人間がいるということに、すごくグッときた。まだ何者でもない、つまり何者にもなれる、そういう存在。とても尊い

 

そんな友人からの出産報告をもらった同時期に、施設にいる祖母がもう長くないという報せを受けた。

産まれる命があれば、死にゆく命もあるんだなと思った。

 

祖母は数年前から施設にいて、去年くらいから私のこともわからなくなっていた。施設に入ったきっかけは趣味だった畑イジりの最中に転んで怪我をしたからだ。それまで腰や足が痛いと言いながらも毎日毎日畑でいろんな花や野菜や果物を育てては収穫して楽しそうにしていたのに、高齢が故、入院生活という環境の急激な変化に対応しきれず、幻覚や幻聴を見聞きするようになり、あっという間に弱ってしまった。

 

祖母とは、私が大学入学を機に実家を出る前、2年間だけ一緒に住んでいた。

幼い頃は、今の実家はただの"おばあちゃんの家"だったので、私や弟にとっては休暇に遊びに行く場所だった。

祖母の畑にはなんでもあった。栗の木、檸檬の木、キウイの木、人参、白菜、みょうが、さつまいも、キャベツ、昔飼っていた犬と猫のお墓。私と弟は遊びに行くたびに、それらの収穫を手伝った。祖母が登れないキウイの木に登ってたくさんのキウイを収穫し、祖母が助かると喜んでくれた日をよく覚えている。(厳密に言うとキウイの木は蔦なので当時登ったのは蔦が絡み付いたビニールハウスの骨組み部分だったんだと思う)

 

栗の木はいつかの台風で折れたと言っていた。レモンやさつまいもは収穫できるたびに大量に送ってくれたので、大学時代はそれを楽しみにしていた。大人になってから、特にレモンは国産がほとんど出回っていないので、祖母の育てるレモンがとても貴重な国産レモンだったということを知った。

 

まだ足腰が丈夫だった頃、祖母はお茶やお華の先生もしていた。家の和室で私もたまに生徒さんに混ざって教えてもらい、みようみまねでお抹茶を飲んでいた。先生としての祖母はいつもの優しい感じではなく、それはだめ、もっとこうするの、と厳しかった。

 

私の両親が離婚し母が出て行ったときは、私や弟と顔を合わせるたびに母のことを悪く言ってきて嫌だった。

私が離婚して精神的に参っていた頃も、会うたびにいろいろ聞いてきたり、父ちゃんも心配してたんだよ、とか言ってきて、そのたびに前に向きつつあった気持ちが戻されてしんどかった。

そういう、人のことを心配しすぎるが故に、余計な言動をしてしまうような人だった。

 

そして祖母は死んだ。危篤と言われてから2週間後に。

ここ数日、私は父とともに通夜と葬式の準備に奔走している。

和尚さんと葬儀場と火葬場の都合がなかなかあわなかったので、祖母はまだドライアイスに包まれて眠っている。

葬儀まで日数があることでいくらか余裕を持って準備ができているものの、その間に遠方から祖母の顔を見に来てくれる人もいて、そのおもてなしもしなければで、なかなか慌ただしい。

 

顔を見に来てくれる人たちは、私の知らない人ばかり。そして彼らが話す祖母のエピソードも、私の知らないことばかりだ。祖母は本当に多くの人に慕われていたのだと感じる毎日である。

 

最後に祖母と会話したとき、父が説明するまで私を私だとわからなかったけど、あの頃の祖母は毎日どんなことを考えていたんだろう。人が天命を全うして死ぬとき、最後に考えるのはどんなことなのだろう。これまでの人生を振り返るのだろうか。出会った人たちへ想いを馳せるのだろうか。先に旅だった祖父のことも思い出しただろうか。喋れなくなって、表情の変化もなくなって、目だけが虚に宙を眺めているだけであっても、息子である父のことは最期までわかっていたのだろうか。

人生を完成させた生命体として、自分の名前は覚えていたのだろうか。

 

脈絡のない話をする

今すごく頭が痛い。今日は朝起きてからずっと体調がイマイチで、夕方になるにつれ頭痛もしてきて夜には完全にグロッキーになってしまった。

頭痛薬も効かないし、食欲もなくなってしまった。

 

夕飯に彼が作ってくれた鶏肉のご飯がおいしかった!なのに少ししか食べられなくてごめんねって思った。そのご飯の名前を忘れた。初めて出てきたメニューだった。彼はいつも冷蔵庫にあるものと料理系YouTuberの投稿とかクックパッドとかとを見比べて何かしら作ってくれる。器用だなって思う。

 

思えば彼はいつも新しいことに挑戦しているな。料理もそうだし、仕事での発想も。私は作ったことがないメニューに挑戦することにすごくハードルを感じてしまう。たぶんやってみれば大したことないんだろうけど、なんとなく見えない壁がそこにはある。作ったことなくて作ってみたいけどその壁が立ちはだかっているものの例としては、アクアパッツァがある。たまに食べたくなるけど結局作らず、豚とナスの炒め物か豚と玉ねぎの南蛮漬けみたいな味の、昔母がよく作ってくれたやつになる。

 

今書きながら、この、料理における新メニューに感じる壁もHSPのせいなのかな?と思って、それと同時に先日HSPにも種類があるらしいということを知ったことを思い出した!自分がなんていう分類だったかは忘れた。でも、人見知りに見られない、とか、あぁこれだなって思ったんだよね。本当は情緒不安定系陰キャなのに陽キャに見られがち。

 

たぶん会社の人たちも、ほとんどの人は私がスクールカースト上位出身者のキラキラ人生を歩んできた陽キャだと思っているんだろう。子供の頃は顔立ちのせいか日本人なのに外国人呼ばわりされて変なあだ名ばかりつけられたし、部活ではよくハブられる3人のうちの1人だった。わかる人いるかな、女子って絶対標的にされない人たちと、その人たちの気分で定期的に標的にされる人たちがいるよね。私はそれの標的にされる分類だったから、一緒に帰ろ〜⭐︎って言ってくれたと思ったら翌日は無視されるみたいなことばっかりだったよ。次はいつ自分がハブられの対象になるのかビクビクしてたし、その人たちの顔色ばっかり伺っていた。あんな部活さっさと辞めれば良かったのに、内申点に響くと思って辞めるなんて口が裂けても言えなかったな。

 

結局私の生き辛いところはそういうところなんだと思うんだよね。高校受験の際の内申点に響くから部活は3年間続けていなきゃいけない、とか、無職は屑って感じがするから働いていなきゃいけない、とか。

 

仕事もスパッと辞められたらすっきりするのかもしれないけど、こんな性格だからいろいろと起きてもいないことを考えてしまって決断できない。あとたぶん今の仕事のこと嫌いではないんだよね。でも不規則になりがちなのと、休みの日でも連絡くるのと、急ぎで対応しなきゃいけないことが多発するのが、辛い。人間らしい生活がしたいって思う。もう落ち着いたけどつい最近までやっていた少し大きな仕事が、連日深夜対応かつ土日も対応だったからある夜爆発して家で一晩中死にたいと叫びながら号泣した。これだって、会社的には私ならできる、もしくは私なら乗り越えられる(乗り越えてほしい)と思って振られた仕事だったと思うんだよね。そしてなんだかんだ無事に終わったから、できた、ということになるのかな。精神的には全然できていなかったのにね。

 

それの反動なのか、今はもう何もしたくないもん。1ヶ月くらい何も考えずに休めたらいいのにな。もっと言うと本当に、仕事辞められたらいいのにな。こんな働き方がまかり通っているこの業界はとても変だよねって思う。他の業界でもやばいところはあるんだろうけどね。

 

仕事のこと考えてたらより一層頭が痛くなってきた。

かなり早めにベットに入って少し眠って目が覚めたから、なんとなくつらつらと書いてみた。昔はこういう素人のなんでもない日常を綴ったブログとかたくさんあったよね。高校生の頃は友達と共同ブログとかやってた。今もそういうなんでもないことを書くようなブログあるのかな?て思ってぐぐってみたけど、稼ぎ方!アフィリエイト!みたいなやつしか出てこなくて、素人ブログがあったとしても趣味とか何か特定のジャンルについて書いているものばかりで、なーんだ、となった。

 

今日はこれでおわり。

私が死のうと思ったのは。

 


小学生の頃からずっと死にたいと思っていたが、その気持ちがピークに達して実行したのは、24歳のときだった。

 


理由のひとつは、生活がうまくいっていなかったこと。

まだ24歳なのに、私は永遠にこの暗い生活をし続けなくてはいけないのかと思うと、まるで鳥籠の中の鳥になったような気分だったし、自分の存在価値を見出せなかった。

 


もうひとつは、重箱の隅を突くような世の中の風潮を前に、この先まともに生きていける気がしなかったからだ。

当時はほぼ専業主婦で人間関係も限られていたので、自分がそういった攻撃や揚げ足取りの対象になることはなかったけれど、最も身近な人間が、自分よりひとまわり以上歳の離れた人間が、そういう社会の波に飲まれ倒れていく姿を見て、「この人が無理なら、きっと私はこの世界では生きられない」と思ってしまったのである。

 

 

子供の頃に死にたいと思っていた理由は、先に書いたものとはもちろん違う。

でも少なくとも、私の中には幼い頃から「生きる」以外の選択肢が確かに存在していて、おそらく自分はいつか、その選択をする日が来るんだろうとなんとなく思っていた。

そういうベースがあって、少し大人になって垣間見えた世の中の様子に足がすくみ、生活にも希望が持てなくなったことが引き金となって、もう私は生きられない、という気持ちになったのだ。

 


激務による過労ではないし、話を聞いてくれる友人もたしかにいた。心療内科の先生もかなり良心的な方で、本当に丁寧に私と向き合ってくださった。

だけど誰にどんなに寄り添ってもらっても、どんなに自分を認めてくれる人がいても、世の中の風潮や生活が変わるわけではないし、そこで私が生きていかなくてはならないという事実もまた、変わらない。そのことに、とにかく絶望してしまった。みんななぜ、こんな自分勝手な人間ばかりが溢れた世の中で、なんだかんだ言いながらも生きていけているのだろう。何も感じないのだろうか?窮屈に思わないのだろうか?私には無理だ。考えただけでもこの世界を生きることのハードルが高すぎるし、こんな世界で生き続けるなんてあまりにも苦しい。私にはできない。

 


誰かに自分を否定されたわけでも、攻撃されたわけでもなかったし、何かに気付いてもらいたいわけでもなかった。でも私はダメだった。

そして助かってしまったときも、心の底から絶望した。

 

 

 

その後、環境を大きく変え視座も少し変わったので、あの頃ほど堕ちることはなくなったけど、それでもこの世を生き苦しく感じることは、正直なところあまり変わっていない。

本当は現在の環境も、私の性質のことを思うとベストではないのかもしれない。と、たまに思う。そしてあのニュースを見て、今また思うのである。

 

 

名前の話

 

結婚して何ヶ月も経っているが、まだ名義変更していないものがたくさんある。

かなりのめんどくさがりなのと、いろんな手続きのために仕事を調整して平日を空けることが難しいなど、理由はいくつかあるが、気づくと「また変えるの面倒だしこのままでもいっか」と考えていることがたまにあってぎょっとする。

 

数年前に離婚したとき、この各種名義変更が本当に本当に本当に本当に大変だった。

初めての結婚は新しい苗字になったことがめちゃくちゃ嬉しくて、新姓になった自分の字面がかっこよくて、嬉々としてすべての名義を変更した。

でも離婚したとき、離婚届を出したあとも保険や何かの会員などのDMが届くたびに「あぁこれもまだ変更してなかった。まだ終わっていなかった」という気持ちになり、精神を削りに削って離婚し、やっと新生活を始めようと立ち直りかけた心が何度もえぐられた。

離婚は結婚の何倍もの労力と精神力を要した。

 

それがあって、今回も冒頭に書いたように「どうせまた離婚したらめちゃくちゃしんどい気持ちで手続きしなきゃいけなくなるし、このままでいっか」という気持ちがふと湧き上がってきてしまうのである。

その度に、なんで離婚前提で考えてるんだよ、と思い直すのだが。

(もちろん離婚予定はない)

 

 

 

 

私は、仕事上では旧姓を名乗っている。

苗字を変えてしまうと社内の人たちも呼び方に困るだろうし、お客さんにいちいち伝えるのも面倒だなと思ったからだが、一番の理由は自分の世界を保つためである。

 

昔、母に「どうして専業主婦だったのに途中から働くことにしたの?」と聞いたら「◯◯さんの奥さん、◯◯ちゃんのママ、っていう肩書だけになって、世界に自分が存在しなくなったような気持ちになったから」みたいなことを言っていた。

私の理由もそれと似ている。

 

前回の結婚のとき、私は簡単なバイトはしていたもののフルタイムではなく、ほぼ専業主婦だったし、バイト先で使う苗字も新姓だった。

とにかく新姓を名乗れることが嬉しかったし、当時は親に対しても思うことがありすぎて、結婚を機に過去の自分を一掃したような感覚だった。でも結果的にそのことが、自我崩壊・相手への依存・精神錯乱・離婚へと繋がっていったのではないかと思っている。

私はある程度自分の世界を持たないとダメな人間なのである。これは離婚からの最大の学びだ。

だから今回は、仕事もするし、名前もそのままにしている。

 

そしてこれが、かなり良い感じなのである。

誰かの妻である前に、ちゃんとひとりの人間として社会と繋がれている感じがするし、仕事で良いことがあれば、過去の自分も含めて肯定されているように感じる。お客さんに腹立つことを言われた場合は、「あなたが今否定している人間は戸籍上は存在しませーん。本当の私はあなたが知らない名前のかわいいヨッメだもん」と思ってやり過ごすことができる。私はこうして気持ちの部分でも、都合よく名前を使い分けているのである。

 

 

 

 

今は親に対しても感謝の気持ちでいっぱいで、これまでの自分をなかったことにしたいとも思っていない。妻としての自分も、旧姓だった自分も認めたい。気の持ちようなのかもしれないし、最初から夫婦別姓にする選択肢もあるんだろうけど、私にとっては、現状がちょうど良いバランスなのである。

 

そんなことを考えながら、何度も何度も担当に催促され、いい加減手をつけないといけない保険名義変更の書類を眺めている。

 

きっと美化されていく

「こんな風に足蹴にされてるなんて思わないだろうね」と彼が言った。たいした内容ではない会話だった。

 

「足蹴にされる」と聞くと私はYUKIの「ふがいないや」を思い出し、まるで連想ゲームのようにアニメ「ハチミツとクローバー」と、それを私に教えてくれた人のことも蘇る。

 

その人はとても繊細で感受性が豊かで、まさにハチクロのような世界観で生きていた。いつも何かを抱えていて、不条理な現代の波に今にも飲み込まれそうになりながら、一方で自らの確固たるルールに則ってそこに立っていた。

 

記憶にある花も雪もイルミネーションも水族館の魚も、絨毯のように広がる田園も、そびえ立つ鉄塔も、横顔も、全部美しい。

最後の日はよく晴れていたな。

最後の日は来ないと思っていたのに。

 

宇多田ヒカルの「Passion」という曲がある。

前半の不安定なメロディーラインと歌詞で描いた過去の情景を、同じメロディーを繰り返し現在の感情を示す後半4行の歌詞で回収する、秀逸な曲。

後悔でも嫉妬でも切なさでもなく、前を向いて、情熱を注いだ過去を懐かしむ。

今そんな気持ち。「足蹴にされる」をきっかけに。

 

きっと二度と会うことはないんだろう。

私たちにできなかった未来の創出を、あなたのときとは少し違う感情で、彼としているよ。

水が飲みたい

数年前、私がまだ地元にいた頃、月に1度あるかないかのペースで深夜2時や3時に連絡してくるのがたくみだった。
たいていは飲み歩いた帰りに「今から家行ってもいい?」というやつだった。


私はたくみと付き合いたいと思っていた時期がある。不動産関連の営業マンとしてバリバリ働く彼は、いつ会ってもイケメンで、優しくて、おもしろくて、一緒に過ごす時間(深夜だけど)は楽しかった。それに、私も彼もとある境遇を乗り越えたという共通の過去があり、そのことが私の中の「イケメンは信用できない説」を崩していたのである。
だけど私たちはふたりで呑みに行ったことも、デートをしたこともない。会うのは必ずたくみが深夜に連絡してきたときだけだった。


この状況を聞いたら誰もが思うだろう。

「それ、セフレじゃね?」と。
私もそう思う。私を好きだと言う割には付き合って欲しいとは言わない彼を前に、「私はこの人の都合の良い女なんだな」と思っていた。腹立たしくて連絡が来ても断ることももちろんあった。


たくみと最後に会ったとき、私は東京に行くことが決まった旨を報告した。お前の都合の良い女はもう卒業。ずっと遠くへ行ってお前のことなんて忘れてやるからな、あばよ。と思った。
あれから数年、たくみとは一度も会っていない。

 

 


私が東京に来た理由は転職先の会社が東京だったからである。というか、いろいろあって今まで興味のなかった大都会へ急に出たくなり、ご縁をたどって上京した。

 

東京という街も、新しい職場(ベンチャー)も猛烈に楽しかった。毎日毎日新しい発見と刺激に溢れていた。田んぼに囲まれたド田舎とは違って、こっちの時間は流れが速い。1日が濃密で、今朝のことが遠い昔に感じることもしょっちゅうある。
私はそうした環境を楽しんではいたけれど、3ヵ月ほど経った頃、「ちょっと待って」と思うようになった。確かに目まぐるしい日々を希望しているし、実際に謳歌している。でもちょっと待って。一旦休みたい。ちょっとでいいから、止まって欲しい。


そう願っても止まってくれないのが東京。これが私の、この街の印象である。
次々と溢れだす新しい情報、増える仕事、果てしない残業の日々、毎週のように発生する休日出勤。そういう日々の中にいると、ふとした瞬間に「一体私はなんのために頑張っているんだろう」みたいな気持ちになることがあった。目的意識をこれでもかと常に持ち続けていないと自分を見失ってしまう。東京は怖い街である。


そんな発狂寸前状態の私を救ったのが駿介だった。駿介は私と地元が同じで大学入学時に上京し、卒業後は都内にある少数精鋭のどベンチャーで働いていた。たくみから連絡が来なかった期間、ほんの少しだけ私は駿介と遠距離恋愛をしていたけれど、友達でいたほうが楽しいという理由で私が振られた。


東京で駿介と再会してから私たちはときどき会っては飲みに行ったりひと晩過ごしたりやることやったりするようになった。けど元サヤに戻ることはなかった。

そう、「これってセフレじゃね?」状態である。

でも当時の私にとっては、そしておそらく駿介にとっても、これがベストな関係性だった。


目まぐるしい日々の中で私は誰かに寄りかかりたくなることがあったけれど、かといって彼氏を作るほどの気力も体力もなかったのである。彼氏がいると、休日の予定を事前に合わせたり、せっかく1日中寝ていられるはずなのに起きて着替えて化粧をして待ち合わせ場所に向かうということを定期的にしなければならなくなる。会えない時期が続けば「彼氏なのに、彼女なのに、なぜ会えないんだ」、連絡がなければ「彼氏なのに、彼女なのに、なぜ連絡が取れないんだ」、あるいは会う約束をしていても急な仕事で会えなくなることもある、そういうストレスを抱えたくなかった。要は、自分のことに精一杯で、彼氏に向き合うという責任まで負う余裕がなかったのである。


駿介に会いたいな、と思う瞬間があって、タイミングが合えば会う。お互いの近況を話して、笑って、一緒に寝て、癒されて、そしてまた日常へ戻って行く。私からも駿介からも、もう一度付き合おうという話は出なかったけれど、駿介は他の男の人より特別な、心を許せる存在だった。少なくとも私の中では。


そういう状況になったとき、私はふとたくみのことを思い出した。もしかしたら、あのときたくみも同じような気持ちだったのではないかと。
営業マンとして仕事に追われ、接待や先輩上司との飲みの席が続く毎日だった彼は、同じ田舎とはいえ定時上がりのOLだった私とは全く違うスピード感で生きていたはずである。疲れたな、ちょっと休みたい、普段の日常とは違う空気を吸いたい、そう思ったときに思い浮かぶのが私だったのではないだろうか。私は当時、遊ばれている、バカにされていると思っていたけれど、もしかしたらたくみが私に会いたいと言う理由と、私が駿介に会いたいと思う理由は同じだったのかもしれない。

 

 


先日、久しぶりにたくみから連絡がきた。
会いたいです。ねこちゃんのことがなかなか忘れられなくて。今度会いに行かせて。
懐かしい気持ちになったのと同時に、東京へ行くことを報告したあの日、たくみが私に言った言葉を思い出した。
「付き合ってたら、東京へ行くなんて言わずにここにいてくれたの?」

 

 こいつ何言ってるんだろう?と思ったあの発言の意味を、荒波のくせに砂漠のように乾き切ったこの大都会で、今また考えるのである。